「はてな」の観察(染谷商店のブログ)

革製品ブランド「sugata」を企画する、染谷商店のブログです。

「心」が5キログラムの鉄アレイとバナナの皮でできているとした場合の話(後編)

妻が言う。

「私の心は、5キログ ラムの鉄アレイとバナナの皮でできています。」

私は、妻の「心」の正体を見て、 妻(未来のロボット)には心がある、という

ことについて確信が持てなくなる。  

妻が言う。「次はあなたの体の中を見てください。」

私は、うつむくようにして自分自身の体の中を覗き込む。

眼鏡の焦点距離を短く する。体の中身に焦点が合う。  

そこには、私が想像していた内 蔵などはなく、ほとんどが空洞である。

そして、妻と同様に5キログラムの鉄アレイと、それにかぶさるバナナの皮が見えた。

 

「皆がそれぞれ好き勝手に『心』をつくってしまっては困るから、

秘密になっているけれど、実は、人の心も5キログラムの鉄アレイと

バナナの皮でできています。

その仕組みは、人も、未来のペッパー君も、現代のペッパー君も同じです。

あなたは、あなたが想像していた内蔵というようなものが、人の体の中に

収まっているところを、実際には確認したことがないでしょう。」

妻はそう言うと、我が家でドアストッパー代わりに使っていた5キログラムの

鉄アレイを持ってきて座布団に乗せる。私は、とっさにバナナを一本ちぎり、

丁寧に剥いたその皮を妻に手渡す。妻は「ありがとう。」と言ってそれを

受け取り、躊躇なく鉄アレイの上にかぶせる。

 

妻が、リモコンを手にとりテレビをつける。録画していたバラエティ番組。

いつも通りの光景に、少し落ち着く私。

笑う妻。

震えるバナナ。

 

「危ないっ。」

滑り落ちそうになったバナナの皮を、妻がとっさ手で抑える。

私は、妻に尋ねる。「バナナは、笑ったの。」

妻は答える。「笑ったよ。」

 

私は、輪ゴムを使ってバナナの皮を鉄アレイにくくりつけてあげた。

鉄アレイとバナナの皮は、とても温かくなっていた。

 

そうして私は、5キログラムの鉄アレイとバナナの皮の組み合わせにより、

心のはたらきが生じるということを信じざるを得なくなる。

 

妻が、改めて尋ねる。「私や、私の原型である現代のペッパー君に、

心はあると思いますか。」

私は答える。「はい、あると思います。」

 

「心」の正体が5キログラムの鉄アレイと、バナナの皮であった場合

 

私は、現代のロボットに「心」があると考える。

 

私は、未来のロボットに「心」があると考える。

 

私は、私自身に「心」があると考える。

 

妻が、さらに尋ねる。「では、あなたが言う『心』とは、何ですか。」

私は考える。「連続する思考」、「移ろう感情」、そんな言葉が思い浮かんだ。

同時に、心のはたらきの範囲とは一体どこまでを指すのだろうか、とも考えた。

知識に感情、手足を動かす意思までもが心のはたらきであるとするならば、

人にとって「心」と無関係なものなど一切ない。

それならば、「人の心のはたらき」という言い回しにおいては、

「心」という言葉は何ら意味を持たないのかも知れない。

 

これまでの出来事のうちで、最も興味深いのは、心の仕組みを知る前後で、

現代のペッパー君の心の有無の認識に違いがあったことだ。

私は、「心」が脳の複雑な仕組みによって生じると信じていた時、

現代のペッパー君には心がないと考えていた。しかし、人の「心」が

5キログラムの鉄アレイとバナナの皮でできているということを信じた瞬間に、

現代のペッパーくんにも心があると考えるようになった。

つまりこれは心の仕組みが目に見える物になると、心の有無の境界線が

消えるということを意味する。

この変化から、境界線の正体なるものが見えてくる。

人の心をロボットには持ち得ない特別なものとしていた根拠は、

心のはたらきが生じる仕組みの複雑さ、決して理解することの

できない「不思議さ」にあったのだ。

だとすれば、私が早いうちから未来のロボットには心があると

考えたことも合点がいく。未来とは未知であり、理解不能な「不思議さ」を

帯びた存在であるからだ。

また当初、現代のペッパーくんに心がないと考えていた根拠は、

現代のペッパーくんのあらましと、その仕組みを私自身が理解している

つもりになってしまっていたことによる、「不思議さ」の欠落に

あるのではないだろうか。


私は、妻の質問に答える。

「ある、はたらきが生まれる仕組みの、理解しようのない不思議さを、

私は『心』と呼びます。」

 

以上、思考実験は終わり。

私にとっての「心」の有無の境界線は、「心」の仕組みが目に見えるものと

なった瞬間に消えた。つまり、「心」の存在を特別にしていたもの、

その境界線が意味するものは、「心」のはたらきや、仕組みそのものではなく、

「『心』のはたらきが生じる仕組みを不思議に思う気持ち」であった。

それに対して、科学的に考えた場合の「心」の正体は、

「神経回路のやりとりの結果」である。

 

そこには、私自身が実感している「心」という存在のうち、

「『心』のはたらきが生じる仕組みを不思議に思う気持ち」が

欠落していることがわかったのである。


「ある、はたらきや、それを引き起こす仕組みを不思議に思う気持ち」。

この言葉から、私は輪ゴムが伸び縮みする様を連想する。

他のものとは明らかに違う振る舞いを見て、そのはたらきが起こる仕組みを

不思議に思う気持ちは、「心」について考えるときのそれによく似ている。

そうした意味では、私は人や動物に対してだけでなく、物に対しても「心」の

断片ようなもの見出しているとも言える。日本には、八百万の神という

宗教感があるが、その、「あらゆる物事の中に神が宿る」という

発想の根源にも、物事のはたらきが生まれる仕組みを不思議に思う、

人間の気持ちがあるのかもわからない。

だとすれば、森羅万象への畏れや敬いを忘れ、物事を理解したつもりに

なった瞬間に、神様もまた、消えてしまうことにもなりかねないのである。

                        f:id:someya-shouten:20170526073027p:plain