「はてな」の観察(染谷商店のブログ)

革製品ブランド「sugata」を企画する、染谷商店のブログです。

18=18.84

もうずいぶんと前のことであるが、

小学校で教える算数の円周率が「3」になるかも知れないという話を耳にした。

(実際には、そのようなことはなかったそうだ。)

私はそのことを聞いたとき、絶対にそんな教え方をしてはいけないと思った。

それは、学力が低下するとか、楽をするのはいけないとか、

そういった理由からではない。

数学が持つ、「概念の上で矛盾がなく、整然と成立した美しさ。」を、数学が

好きな人や、得意な人たちから奪ってはいけないということを、

漠然と感じていたためだ。

 

それから、ずいぶんと経ったある日、私は、吉祥文様を用いた新しいデザインに

取り組んでいた。

吉祥文様とは、良い兆し、めでたいしるしなどを意味する図柄、古来より伝わる

伝統模様である。同じ図形の連続模様をその特徴とするデザインは、連綿と続く

繁栄を願う心などを表しているそうだ。私は図柄を考案するため、連続して並ぶ

正六角形をデザインの土台としていた。そして、正六角が6つの正三角形から

出来ているという図形の見方をした、そのときに、私はなぜ円周率が「3」では

いけなかったのかという理由に気がついた。

 

例えば、直系6cmの円と、円の内側に接する正六角形があったとする。

その場合、正六角の外周の長さは18cmとなる。

では、円の外周はどのようになるであろうか。

                                           

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円周の長さを円周率=3で計算をした場合

6×3=18(cm)

 

円周の長さを円周率=3.14で計算をした場合

6×3.14=18.84(cm)

 

円周率を「3」とした場合、正六角形よりも明らかに長いはずの円の外周が、正六角とまったく同じ長さで存在することになってしまうのである。

数学は「概念の上で矛盾がなく、整然と成立した美しさ。」を持つ。しかしながら、円とその円の内側に接する正六角形の外周が同じとなることは、明らかな矛盾である。よって円周率を「3」とした場合、それはもはや数学ではない。

 

私は、今改めて、円周率が「3」ではいけないという結論に辿り着いた。

 

数学好きの人曰く、数学の魅力は、生活の役に立つという実用性というよりは

むしろ、矛盾のない考え方や、その美しさにこそあるのだそうだ。

円周率を「3」にするということは、要は計算を簡略化するということであり、

私のように数学をあまり得意としない者にとっては、確かに有り難い話ではある。

けれども、目の前に居並ぶ吉祥文様を見つめながら、私もこの潔い美しさに

対して、やはり敬意を払いたいというような心持ちになったのである。

   

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生乾きにはYAZAWA干し。

梅雨の生乾き対策にはYAZAWA干し☆

部屋干しのちょっとした工夫です。

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生乾きの原因となるモラクセラ菌は、洗濯物が乾くまでの時間がかかるほど

増殖してしまいます。

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仕方がない。

となりに立った人が二刀流なので、どこにも掴まることができない。

 これは、仕方がないことだ。

 

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整然とした美しさ。

構成が素晴らしい、約3分間の動画。

ご存知でない方はぜひご覧ください。

 

映像の冒頭で紹介されるのは、「暗闇に光る白い粉」。

「サイアロン蛍光体」と呼ばれるこの白い粉の開発こそが、

LED電球や液晶テレビを実用へと結びつけたのだとか。

 

しかし、不思議なことに、

白く発光するサイアロン蛍光体というものは、

世の中に存在しないのだという。

一体どういうことか。

 


未来の科学者たちへ #05 「サイアロン蛍光体」

 

制作は、テレビ番組「ピタゴラスイッチ」や、

ISSEY MIYAKE A-POC INSIDE」の短編映像などで知られる

クリエイティブ・グループ「EUPHRATES(ユーフラテス)」。

 


ISSEY MIYAKE

 

こうして見ると、私たちは、実に思いがけない情報からも、

「性差」や、生物の区分としての「種族の違い」など、

多くのことを読み取っているというのがわかる。

あるいは、同じ映像から、衣服と人の関係についてや、

物が動いているように見える仕組み、時間の流れについてなどを

考える人もあるかもしれない。

 

何はともあれ、こんなにも短い時間の、シンプルな映像によって、

これほどに豊かな表現をなし得るという事実は驚くべきことだ。

彼らの作品に共通する整然とした美しさには、

実に心惹かれるものがある。

 

「表現の豊かさ」と「要素の複雑さ」とは、

決して等しい関係にないことを、私は心に留めておきたいと思う。

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青空に現れる白い点の正体がわかった話。

私は幼い頃、ボール遊びが好きだった。

いつまででも飽きることなく、夢中になってボールを追いかけることができた。

 

これは、そんな私が小学3年生か、4年生だった頃の話である。

 

雲ひとつない、快晴。

その日も、私は友人とサッカーボールでひとしきり遊び終えた後、

少しばかり傾斜のついた芝生に寝転んでいた。こう言うと、

いかにも心地好さそうに聞こえるが、実際には芝生の先端がチクチクと

背中に刺さるうえ、陽射しも強く、ジリジリとやたらに暑い。

真っ青な空はあまりに眩しく、目をしっかりと開いていることもできない程だ。

薄目でぼんやりと青空を眺めてみる、眩しい空にもだんだんと目が馴れていく。

するとそのとき、私ははたと気がついた。無数のちいさな白い点が

縦横無尽に視界の中を走り、表れては消え、表れては消えを繰り返していたのだ。

 

ちょうど部屋の天井くらいの高さに焦点を合わせる感覚。

それは、激しくまばたきをしても消えることがない。

視線を左右に動かすと同時に視界を移動する。

どうやらこの白い点々は、空中や目の表面にあるのではなく、

眼球の中に存在するようだ。

 

「目の病気かも知れない。」

 

当時小学生だった私は、不安に襲われた。

しかし、その現象はそれ以降日常生活の中に現れることはなかった。

そして、曇り空にも現れることはなかったのである。

わざわざ眩しい思いをしてまで、青空を眺める機会など人生には

そうないもので、「視力2.0」を自負する私は、いつの間にかその心配な

気持ちをすっかり忘れていた。

 

 

さて、そんな私は、今年の4月から東京都台東区の創業支援施設

台東デザイナーズビレッジ」に拠点を移して活動している。

部屋には、大きな黒板とロッカー。小学校の教室を改築した、珍しい事務所だ。

引っ越しの荷物を運び入れた私は、窓の拭き掃除をしていた。

 

空は快晴。

窓を拭きながらぼんやりと空を眺める。

そのときふと、あのちいさな白い点が、子どもの頃に見たそれと変わらず、

視界の中を無数に走っていることに気がついた。

 

大人になった私は、廊下で雑巾をすすぎながら、

「本当のところあれは一体何なのだろうか」と考えてみた。

当時に比べれば多少は増えた知識。

それをもってしても、相変わらず正体は不明だ。

事務所に戻りスマートフォンを手に取る。

「青空に見える白い点々」と検索する。

検索のトップに表示されたのはウィキペディア

「ブルーフィールド内視現象」の文字。

 

ブルーフィールド内視現象 | 青空の妖精と呼ばれる、ちいさな光点が

視野の中を急速に動き回る現象。特に青空のような明るい青い光を見た時に

見える。その正体は眼球内、網膜の前にある毛細血管を走る「白血球」である。

 

他にも、いくつか関連のありそうなウェブサイトを見たが、

どれも内容は似たようなものだった。

 

つまり、あの白い点の正体は血液を流れる「白血球」だったのだ。

体内に侵入する細菌やウイルスを排除してくれるという「白血球」。

それを、まさか顕微鏡も使わずに目視することができるなどとは

思いもよらなかった。

 

再び窓の外に視線を移す。

空には、やはりちいさな白い点が元気に走り回っていて、

私は妙に脱力してしまった。

 

 

小学生の私は、自分の免疫細胞が元気にはたらいている様子を見て、

不安に陥っていたのであった。

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「心」が5キログラムの鉄アレイとバナナの皮でできているとした場合の話(後編)

妻が言う。

「私の心は、5キログ ラムの鉄アレイとバナナの皮でできています。」

私は、妻の「心」の正体を見て、 妻(未来のロボット)には心がある、という

ことについて確信が持てなくなる。  

妻が言う。「次はあなたの体の中を見てください。」

私は、うつむくようにして自分自身の体の中を覗き込む。

眼鏡の焦点距離を短く する。体の中身に焦点が合う。  

そこには、私が想像していた内 蔵などはなく、ほとんどが空洞である。

そして、妻と同様に5キログラムの鉄アレイと、それにかぶさるバナナの皮が見えた。

 

「皆がそれぞれ好き勝手に『心』をつくってしまっては困るから、

秘密になっているけれど、実は、人の心も5キログラムの鉄アレイと

バナナの皮でできています。

その仕組みは、人も、未来のペッパー君も、現代のペッパー君も同じです。

あなたは、あなたが想像していた内蔵というようなものが、人の体の中に

収まっているところを、実際には確認したことがないでしょう。」

妻はそう言うと、我が家でドアストッパー代わりに使っていた5キログラムの

鉄アレイを持ってきて座布団に乗せる。私は、とっさにバナナを一本ちぎり、

丁寧に剥いたその皮を妻に手渡す。妻は「ありがとう。」と言ってそれを

受け取り、躊躇なく鉄アレイの上にかぶせる。

 

妻が、リモコンを手にとりテレビをつける。録画していたバラエティ番組。

いつも通りの光景に、少し落ち着く私。

笑う妻。

震えるバナナ。

 

「危ないっ。」

滑り落ちそうになったバナナの皮を、妻がとっさ手で抑える。

私は、妻に尋ねる。「バナナは、笑ったの。」

妻は答える。「笑ったよ。」

 

私は、輪ゴムを使ってバナナの皮を鉄アレイにくくりつけてあげた。

鉄アレイとバナナの皮は、とても温かくなっていた。

 

そうして私は、5キログラムの鉄アレイとバナナの皮の組み合わせにより、

心のはたらきが生じるということを信じざるを得なくなる。

 

妻が、改めて尋ねる。「私や、私の原型である現代のペッパー君に、

心はあると思いますか。」

私は答える。「はい、あると思います。」

 

「心」の正体が5キログラムの鉄アレイと、バナナの皮であった場合

 

私は、現代のロボットに「心」があると考える。

 

私は、未来のロボットに「心」があると考える。

 

私は、私自身に「心」があると考える。

 

妻が、さらに尋ねる。「では、あなたが言う『心』とは、何ですか。」

私は考える。「連続する思考」、「移ろう感情」、そんな言葉が思い浮かんだ。

同時に、心のはたらきの範囲とは一体どこまでを指すのだろうか、とも考えた。

知識に感情、手足を動かす意思までもが心のはたらきであるとするならば、

人にとって「心」と無関係なものなど一切ない。

それならば、「人の心のはたらき」という言い回しにおいては、

「心」という言葉は何ら意味を持たないのかも知れない。

 

これまでの出来事のうちで、最も興味深いのは、心の仕組みを知る前後で、

現代のペッパー君の心の有無の認識に違いがあったことだ。

私は、「心」が脳の複雑な仕組みによって生じると信じていた時、

現代のペッパー君には心がないと考えていた。しかし、人の「心」が

5キログラムの鉄アレイとバナナの皮でできているということを信じた瞬間に、

現代のペッパーくんにも心があると考えるようになった。

つまりこれは心の仕組みが目に見える物になると、心の有無の境界線が

消えるということを意味する。

この変化から、境界線の正体なるものが見えてくる。

人の心をロボットには持ち得ない特別なものとしていた根拠は、

心のはたらきが生じる仕組みの複雑さ、決して理解することの

できない「不思議さ」にあったのだ。

だとすれば、私が早いうちから未来のロボットには心があると

考えたことも合点がいく。未来とは未知であり、理解不能な「不思議さ」を

帯びた存在であるからだ。

また当初、現代のペッパーくんに心がないと考えていた根拠は、

現代のペッパーくんのあらましと、その仕組みを私自身が理解している

つもりになってしまっていたことによる、「不思議さ」の欠落に

あるのではないだろうか。


私は、妻の質問に答える。

「ある、はたらきが生まれる仕組みの、理解しようのない不思議さを、

私は『心』と呼びます。」

 

以上、思考実験は終わり。

私にとっての「心」の有無の境界線は、「心」の仕組みが目に見えるものと

なった瞬間に消えた。つまり、「心」の存在を特別にしていたもの、

その境界線が意味するものは、「心」のはたらきや、仕組みそのものではなく、

「『心』のはたらきが生じる仕組みを不思議に思う気持ち」であった。

それに対して、科学的に考えた場合の「心」の正体は、

「神経回路のやりとりの結果」である。

 

そこには、私自身が実感している「心」という存在のうち、

「『心』のはたらきが生じる仕組みを不思議に思う気持ち」が

欠落していることがわかったのである。


「ある、はたらきや、それを引き起こす仕組みを不思議に思う気持ち」。

この言葉から、私は輪ゴムが伸び縮みする様を連想する。

他のものとは明らかに違う振る舞いを見て、そのはたらきが起こる仕組みを

不思議に思う気持ちは、「心」について考えるときのそれによく似ている。

そうした意味では、私は人や動物に対してだけでなく、物に対しても「心」の

断片ようなもの見出しているとも言える。日本には、八百万の神という

宗教感があるが、その、「あらゆる物事の中に神が宿る」という

発想の根源にも、物事のはたらきが生まれる仕組みを不思議に思う、

人間の気持ちがあるのかもわからない。

だとすれば、森羅万象への畏れや敬いを忘れ、物事を理解したつもりに

なった瞬間に、神様もまた、消えてしまうことにもなりかねないのである。

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「心」が5キログラムの鉄アレイとバナナの皮でできているとした場合の話(前編)

私は、いわゆる「心」と呼ばれる ものが、自分自身の中に在ると、

確かに感じている。しかしながら、 私の存在と同義とも言える、

その身近な感覚は、いざ言葉で言い表 そうとすると、実に難しい。

曖昧で、何とも捉えがたい存在だ。

「あなたには、心がありますか。」 と、もしも誰かに尋ねられたなら

私はさほど迷うことなく「はい、 あります。」と答えるだろう。

けれども「ではあなたの言う心 とは、何ですか。」と重ねて問われたとき、

私は途端に言葉に詰まってしまうに違いない。実際のところ、私は

このことについて自分自身を納得させる回答さえ持ち合わせていないのだ。

 

ある科学者が「心とは脳機能の 一部、神経回路のやりとりの結果 でしかない。」と

言ったそうだ。

 

それは、科学的に考えた場合の「 心」の正体。  

 

「心」とは何か、という疑問に ついて、現代の人間が出し得る、

真実に最も近い回答であるのかも 分からない。けれども、私はその言葉に、

少なからぬ違和感を覚える。それは、私が日頃何となくのうちにも意識し、

口にしている「 心」という言葉との間にずれが生 じているからに他ならない。

 

現時点において、私にとっての 「心」という言葉は、非常に不確かでは

あるものの、科学的に考え る「心」の説明に依るだけでは、

決して表現することのできない意 味合いを含む。  

 

私は、自分自身にとって最も身 近である感覚、「心」について、

今一度考察してみることにする。

 

「心」について考えはじめる前に

 

私は、地球の形が球体であるこ とを知っている。

しかし、地球が 球体であるという真実を、実感す ることはとても難しい。

私が自らの感覚を通じて認識する地球の形 は、どこまでも果てしなく

続いていく平面である。 言うなればそれは、「真実とし ての地球の形」と

「実感としての 地球の形」の相違である。真実と実感が一致しないことは、

往々にしてある。

さて、これから考える のは、心のはたらきを生じさせる体の仕組みの正体に

ついてではない。あくまで、私個人が「心」と いうものをどう捉えているか、

何を指し示してそう呼んでいるか、と いうことについての考察である。

それにより、科学的に考えた場合の「心」と、「実感としての心」の間に

生じる違和感の正体を明らか にしてみたいと思う。  

 

まず、はじめに心のあるものと 心のないものについて、私がどのように

捉えているか確認を行う。

「心」について考察するための材料として、まずはじめに、心の有無の境界線に

ついて考えていきたい。

 

私は、石に「心」がないと考えて いる。 私は、輪ゴムに「心」がないと考えている。

 

私は、ペッパー君(人工知能搭載 ロボット)に「心」がないと考えている。

 

私は、アリに「心」があると考えている。

 

私は、犬に「心」があると考えている。

 

私は、私の妻に「心」があると考えている。  

 

現時点において、私はこのよう に考えている。アリの心の有無については

かなり悩んだが、人とは その性質が違うにしろ、虫にも「 心」に

相当するものがあると考えた。私にとって心の有無の境界線は、

ペッパー君とアリの間にあるようだ。

 

「心」と「心ではないも の」。それを隔てている境界線の意味を追究すれば

自ずと私にとっての「心」とは何であるかという ことが明確になるのでは

ないだろうか。  

心の有無の境界線。それは、「 心」を「心」たらしめる根拠そのものである。

それを確かなものと するため、思考実験を試みる。

私にとって身近な存在である、私の妻を起点として、自らの考えに

揺さぶりをかける。

 

以下、思考実験。  

 

ある朝、妻が私に言う。「実は、 私は未来からやって来たロボットです。」

そして、私が驚く間もなく、その証拠の数々を机上に広げる。私の妻は、

普段まったく嘘をつかない。そして、いわゆるサプライズというものを好まない。

 

私は、私の妻が未来からきたロボ ットだと信じざるを得なくなる。

 

 妻が言う。

ソフトバンクロボティクス社のペッパー君を知っているでしょう。

私は、その直系の後継機MH-600です。」そして、ロ ボット(妻)の保証書を

差し出す。

 

私は、妻がロボットであり、ペッ パー君の後継機であることを

信じざるを得なくなる。

 

妻が私に尋ねる。「私には、心があると思いますか。」私は答える。

「はい、あると思います。」 私は、ながく生活を共にしてきた妻が、

未来につくられるロボットであることを知った場合にも、そこには

心があると考える。

 

私は、未来のロボットに「心」が あると考える。  

 

妻が続けて尋ねる。

「では私の原型である、現代のペッパー君に心があると思いますか。」

私は答える。「いいえ、ないと思います。」

 

私は、現代のロボットに「心」が ないと考える。    

 

妻が台所の引き出しから道具を出してくる。

見たこともないゴー グルのような眼鏡。妻は「これをかけてみてください。」

と言う。私はそれを装着する。すると、ある一定の距離にあるものだけが、

目に映る。ある距離よりも、手前や奥に あるものは一切見えなくなる。

妻曰く、これは現代で言うところのレントゲンやMRIであり、

未来の医師が使う眼鏡だそうだ。

「その眼鏡で、私の体の中身を見てください。」

私は、妻から1.5メートル程の距離をとり、妻のいる方向を見た。

すると、輪切り状になった妻の断面 が見える。 意外なことに、

中身はほとんど 空洞だ。そして何やら見覚えのある形。私は眼鏡の

フレーム部にあるダイヤルを回して焦点距離を前後させる。

見えてきたのはふたつの球体、それらを繋いでいるバー。「5kg」の文字。

そしてその上には、くたっとしたバナナの皮のようなもの。  

妻が言う。

「私の心は、5キログ ラムの鉄アレイとバナナの皮でできています。」

私は、妻の「心」の正体を見て、 妻(未来のロボット)には心がある、という

ことについて確信が持てなくなる。  

妻が言う。「次はあなたの体の中を見てください。」

私は、うつむくようにして自分自身の体の中を覗き込む。

眼鏡の焦点距離を短く する。体の中身に焦点が合う。  

そこには、私が想像していた内 蔵などはなく、ほとんどが空洞である。

そして、妻と同様に5キログラムの鉄アレイと、それにかぶさるバナナの皮が見えた。

(後編へ続く)

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